なぜ第二次世界大戦前に日本から満州へ移住した人たちがいたのか(3)

調査の現状とこれから調べること

調査の目的
第二次世界大戦前に日本から満州へ移住した人たちの移住の目的を調べること。
もう少し細かく言うと、
移住の動機は何だったのか。何か利点があったのか。
日本の経済状態が悪くて仕事がなかったのか。
あるいは、国から半ば強制されて移住したのか。
そうだとすると、そこまでする理由(背景)は何だったのか。

わかったこと
満蒙開拓移民は、満州その他の地域で未開の地に住居、農地、道路、鉄道などを作った人たち。
そして、それは国の政策で行われた。
期間は満州事変以降の1931年から1945年までの15年間。
それ以前の1905年から1945年まで、日本は満州の一部の関東州の租借権を持っていた。

満州事変は関東軍南満州鉄道の線路を爆破したのがきっかけではじまったらしい。
その後、関東軍は約5か月で満州を占領した。
関東軍は、日露戦争によって大日本帝国が得た関東州と南満州鉄道の所有地を守るための組織から生まれた。
それらの土地は経済的に重要だったようだ。
そして大日本帝国経済的利益を拡大しようとしていたようだ。

これから調べること
南満州鉄道を守るのが関東軍の役割なのになぜ線路を爆破したのか。
満州事変までの経緯
満蒙開拓移民満州事変以降に始まったらしいから、関東軍満州を占領した後に始まったのだろうか。

調査を再開しよう。
満州事変までの経緯を調べている。
中国は1902年からイギリスに対する国権回復に着手していた。失った国権というのはおそらく阿片戦争によって失ったものだろうと推測した。

満州事変までの経緯の次の部分を調べていた。
満州事変 - Wikipedia

中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。

わからないことが下記のもの。
蒋介石派」とは何か。
「カラハン宣言」とは何か。
「条約継承否定説」とは何か。
「日本との過去の条約(日清間の諸条約)」とは何か。

まずは、「蒋介石」から調べよう。
蔣介石 - Wikipedia

蔣 介石(しょう かいせき、1887年10月31日 - 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統中国国民党永久総裁。

正式には「蔣」という字を使うみたいだ。中華民国を作った人といった感じかな。
蒋介石派」というのがよく分からない。当時中華民国内で派閥同士の争いがあったのだろうか。調べ方がよくわからないのと、それほど深入りする必要もなさそうなのでとりあえず先に進もう。

次は、「カラハン宣言」
レフ・カラハン - Wikipedia

レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン(1889年1月20日 - 1937年9月20日)は、ロシアの革命家、ソヴィエト連邦ソ連)の外交官である。

「カラハン」という人が検索された。この人がカラハン宣言を行ったのだろうか。
先を読もう。
「経歴」の項目に下記の記載があった。

1919年7月に第一次カラハン宣言を北京政府および広東政府に宛て発出し、1920年9月に第二次カラハン宣言を北京政府が派遣した張外交使節団と手交した。これら二つの宣言より、ソ連政府は中華民国(中国)に対する新たな外交政策を提示した。

やはり、この人がカラハン宣言を行ったようだ。宣言は第一次と第二次があったらしい。
「北京政府」と「広東政府」に宣言を出した、という表現が気になる。北京政府と広東政府というのは中華民国の政府なのだろうか。そうだとすると、中華民国には当時2つの政府が存在していたのだろうか。
とりあえず続きを読もう。
「カラハン宣言」という項目がある。

第一次カラハン宣言は北京政府、広東政府の南北両政府に宛てられ、ロシア革命直後のレーニンによる宣言の趣旨を継承し、ロシア帝国清朝と結び、中華民国が継承した北京条約などの不平等条約の即時・無条件撤廃を表明した。ただし、中国政府に宛てられたとされる内容とソビエト側で発表された内容に食い違いがあり、ソビエト側で発表された文書には東清鉄道に関する権益の放棄は欠落していた。

やはりここにも、「北京政府」、「広東政府」の「南北両政府」という表現があるから、2つの政府に分かれていたようだ。何か争っていたのだろうか。
カラハン宣言の内容は、ロシア帝国清朝と結んだ不平等条約ソビエト中華民国との間で撤廃するというものみたいだ。
ソビエト中華民国ができた年を確認しておこう。

ソビエト - Wikipedia

ソビエトは、ロシア革命時のロシア帝国において、社会主義者の働きかけもありながら、主として自然発生的に形成された労働者・農民・兵士の評議会(理事会)。もしくはそれらの(名目上の)後継組織であるソビエト連邦の議会。

ソビエト」で検索してみたが、これは国の名前ではないらしい。
ソビエト連邦」が国の名前なのだろうか。
ソビエト連邦 - Wikipedia

ソビエト社会主義共和国連邦は、1922年から1991年までの間に存在したマルクス・レーニン主義を掲げたソビエト連邦共産党による一党制の社会主義国家であり、ユーラシア大陸における共和制国家である。

ソビエト社会主義共和国連邦」が正式な名前みたいだ。ただ、1922年から1991年までの間に存在した国だからカラハン宣言が出された1919年にはまだ存在していない。
ということは、その前に存在していた国でカラハン宣言が出されたということだ。
その前の国というのは何だろうか。
続きを読んでみよう。

ソビエト連邦は、ロシア帝国を倒した1917年のロシア革命を起源とする。
1922年、共産主義者が勝利し、ロシア、ザカフカースウクライナ白ロシアなどの各共和国を統合し、ソビエト連邦を形成した。

上記の記載があった。細かいことはよくわからないが、1917年にロシア帝国が倒れて、1922年までの間は争いがあったようだ。
カラハン宣言はその争いの最中に出されたもののようだ。

次は中華民国が作られた年を調べよう。
中華民国 - Wikipedia

中華民国は、東アジアに位置する共和制国家。首都は台北市
アジアで2番目の共和国として1912年に大陸地区で成立したが、国共内戦中華人民共和国に大陸地区から放逐され、1950年以降は台湾省の全域と福建省の極一部の島嶼(台湾地区)を実効支配する海洋国家となった。台湾地区は、日本やフィリピン、中華人民共和国と領海を接する。

1912年に成立したようだ。中華民国というのは今の台湾のことを指すのだな。

では、カラハン宣言の説明の続きを読もう。

その後、第一次カラハン宣言は修正され、第二次カラハン宣言が北京政府とのみ取り交わされが、これにも東清鉄道に関する権益の放棄は謳われていなかった。

これら二つの宣言により、中国民衆はソヴィエト政権や共産主義への支持・共鳴を広げ、中国言論界の世論形成に多大の影響を与えた。一方、モンゴル問題などでソヴィエト政権と対立する北京政府を揺さぶった。また北京政府と対抗する広東政府指導者の孫文ソ連との関係強化を促し、1924年の第一次国共合作へとつながる下地となった。

細かい内容はよくわからないが、カラハン宣言により中国は共産主義を支持するようになったらしい。
「第一次国共合作」とは何だろうか。
国共合作 - Wikipedia

国共合作とは、1924年から1927年と、1937年から1945年の2度にわたり中国国民党中国共産党の間に結ばれた協力関係のことである。

おそらく1924年から1927年の1回目のほうを第一次国共合作というのだろう。
中国国民党中国共産党というのが、北京政府と広東政府の2つの政府と関係があるのだろうか。
続きを読んでみよう。

第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。

「第一次国共合作」という項目があった。
軍閥および北京政府に対抗する共同戦線」というのがよくわからない。
国共合作中国国民党中国共産党の強力なのだから、これら2つの党が共同で軍閥と北京政府に対抗したということだろうか。
広東で開催した第一次全国代表大会で第一次国共合作が成立したということだから、2つの党が作ったのが広東政府ということだろうか。
ウィキペディアの「北京政府」というページがあるみたいだから見てみよう。
北京政府 - Wikipedia

中華民国は、1911年の辛亥革命によって、1912年1月1日、南京において成立した。しかし、この時点では中国を代表する政府として国際的に承認されていた大清帝国が北京に存続していた。両者は宣統帝の退位、臨時大総統職の孫文から袁世凱への移譲、「臨時約法」遵守などで合意し、統一された。その後、袁世凱中華民国の首都を南京から自らの勢力基盤である北京に移したが、これが北京政府のはじまりである。

ややこしいな。国が変化するときだからいろいろ混乱するのが当然なのかな。
まず、中華民国が1912年南京で成立した。
しかし、この時点では大清帝国というのが北京に存続していた。おそらくこれが古い政府なのだろう。
その後両者は統一され、中華民国の首都が南京から北京に移された。これが北京政府である。ということらしいな。

では、第一次国共合作に戻ろう。
この新しくできた中華民国の北京政府に対抗する動きが第一次国共合作ということだ。
それで何を調べていたのだろう。
そうだ、カラハン宣言の説明の中に第一次国共合作が出てきたのだった。
では、カラハン宣言に戻ろう。
もう一度カラハン宣言の説明を読もう。

その後、第一次カラハン宣言は修正され、第二次カラハン宣言が北京政府とのみ取り交わされが、これにも東清鉄道に関する権益の放棄は謳われていなかった。

これら二つの宣言により、中国民衆はソヴィエト政権や共産主義への支持・共鳴を広げ、中国言論界の世論形成に多大の影響を与えた。一方、モンゴル問題などでソヴィエト政権と対立する北京政府を揺さぶった。また北京政府と対抗する広東政府指導者の孫文ソ連との関係強化を促し、1924年の第一次国共合作へとつながる下地となった。

カラハン宣言が第一次国共合作の下地となったらしい。
つまり、カラハン宣言によって北京政府へ対抗する動きが生まれたということらしいな。
その前の部分に「北京政府と対抗する広東政府指導者の孫文」という記載がある。
そういえばさっきの北京政府の説明の中に「孫文」という人が出てきていたな。もう一度読んでみよう。

両者は宣統帝の退位、臨時大総統職の孫文から袁世凱への移譲、「臨時約法」遵守などで合意し、統一された。

孫文から袁世凱へ地位を移譲したと書いてある。
カラハン宣言の説明には孫文は広東政府の指導者だと書いてあった。
よくわからなくなった。
孫文から袁世凱への地位の移譲を決めたのは新しい中華民国の政府である北京政府だ。
北京政府が対抗する広東政府の指導者の地位の移譲を決めたというのは変な気がする。
調べてみるか。「孫文」について調べてみよう。
孫文 - Wikipedia

孫 文(1866年11月12日 - 1925年3月12日)は、中華民国の国父・政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。

孫文中華民国を作った人のようだ。その人が、その後中華民国に対抗するようになるのだろうか。
続きを読んでみよう。
中華民国建国」という項目に下記の記載がある。

1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文アメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。

まずは、孫文中華民国の代表者になったようだ。その後何かが起こるのだろうか。

1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得。同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした。宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱アメリカの政治学者グッドナウによる強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した。

1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国大皇帝に即位する。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁は病死するが、段祺瑞が後継者になる。

孫文は国民党の指導者になるみたいだな。そしてその後、袁世凱という人が権力を握ったようだ。そして、孫文が所属する国民党を弾圧した。この動きから孫文中華民国に対抗するようになるのだろうか。

この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、「軍閥割拠」の状況であった。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東軍政府を樹立する。しかし、軍政府における権力掌握の為に、旧広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わった。また、第二次護法運動は連省自治を主張する陳炯明との路線対立により六・一六事変が勃発して失敗、蒋介石や陳策らと共に広州を脱出した。

孫文が「広東軍政府」を樹立したと書かれている。おそらくこれは広東政府と同じものだろう。
これでさっきの疑問が解けたようだ。
孫文は最初は中華民国の指導者だったが袁世凱と対立するようになり1917年に広東政府を作ったということだ。
では、カラハン宣言の説明に戻ろう。

北京政府と対抗する広東政府指導者の孫文ソ連との関係強化を促し、1924年の第一次国共合作へとつながる下地となった。

動きとしてはこういうことだろう。
1917年孫文中華民国の北京政府に対抗する広東政府を作った。
1919年と1920年にカラハン宣言が出され、それによって孫文ソビエト連邦の関係が強化された。
それが1924年の第一次国共合作へつながった。

長かったなあ。ところで一体何がわかったのだろう。わからなくなってしまった。
カラハン宣言は結局のところどういうものなのか。
ソビエト連邦中華民国との不平等条約を撤廃して中華民国の権利を回復させたということだった。
そして中華民国はそれを歓迎し、国民はソビエト連邦共産主義を支持するようになった。
ただし、当時の中華民国は2つの政府に分裂していた。そして、正確なところはわからないが、広東政府がよりソビエト連邦との結びつきを強めたようだ。
まだ十分にはわかっていないが、とりあえずこれくらいにして主要な調査項目に戻ろう。
何を調べていたのかわからなくなったので整理しよう。

満州事変までの経緯の次の部分を調べていたのだった。
満州事変 - Wikipedia

中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。

わからなかったことが下記のもの。
蒋介石派」とは何か。
「カラハン宣言」とは何か。
「条約継承否定説」とは何か。
「日本との過去の条約(日清間の諸条約)」とは何か。

いちおうカラハン宣言まで調べた。何がわかったのか。
中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し」
あれ、蒋介石というのはどんなひとだったかな。ひどいな、調べたはずなのにわからなくなってしまった。
振り返ろう。
蔣介石 - Wikipedia

蔣 介石(しょう かいせき、1887年10月31日 - 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統中国国民党永久総裁。

「第3代・第5代国民政府主席」であり、
「初代中華民国総統」であり、
中国国民党永久総裁」なのか。
最初に調べたときは、「初代中華民国総統」という記述を見て中華民国を作った人なのかと漠然と思っていたが、今になってみると、中華民国を作ったのは孫文だから蒋介石中華民国を作った人ではないな。孫文より後の人だ。
「初代中華民国総統」というのは何だろう。
「国民政府主席」というのもわからない。北京政府と広東政府以外にも政府があったのだろうか。
中国国民党永久総裁」となっているから孫文と同じ党に所属していたみたいだ。
まだ調査が足りないようだ。

とりあえず調査を始める前にわかっていることを整理しよう。
1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。その後、首都を北京に移し北京政府が成立する。
1913年袁世凱が権力を持つようになり孫文が所属する国民党を弾圧し始めた。
1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国大皇帝に即位する。翌年、袁世凱は病死する。
1917年に孫文が北京政府に対抗する広東政府を作る。
1919年ソビエト連邦がカラハン宣言を出す。中華民国の権利が回復する。そして、中華民国ソビエト連邦共産主義を支持するようになる。

それで、「中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近」という記述につながるようだ。
ということは、1919年時点では蒋介石が権力を握っていたのか、いやでも蒋介石は国民党の人のようだから孫文の側にいたのだろうか。
そういえばソビエト連邦により近づいたのは孫文の広東政府だったみたいだし。
まあそれは蒋介石について調べれば分かるかな。

なかなか進まないな。調査の現状を確認しよう。
満蒙開拓移民の動機、目的、背景を調べている。
満蒙開拓移民満州事変以降に始まったらしいので、満州事変について調べている。
満州事変が関東軍満州鉄道爆破によって始まったらしいことがわかったが、なぜ関東軍がそれを行ったのが疑問に思い満州事変が起こる経緯を調べている。
その中の、「中華民国がカラハン宣言以降共産主義に接近し、日本との過去の条約の無効を主張し始めた。」という部分を調べている。
こんな感じだ。整理してみると、今調べていることは元の目的から少し離れているな。調査の仕方が正しいのか不安になる。
まあ、でもわからないからしょうがないか。とりあえずこのまま進めよう。