なぜ第二次世界大戦前に日本から満州へ移住した人たちがいたのか(1)

第二次世界大戦の前、日本から満州というところへ移住した人たちがいたらしい。
なぜ彼らは移住したのか。
日本に仕事がなかったのか。
満州に行くと何かいいものを得られたのか。
ネットで調べてみることにした。
もしかして、満州へ移住した人たちがいたという状況が、
その後、日本が日中戦争と太平洋戦争へ向かう原因の一つだったのかもしれないという思いもあった。

まずは「満州 移民」で検索してみる。
満蒙開拓移民」というウィキペディアのページが検索された。
満蒙開拓移民 - Wikipedia

正式にはそう呼ぶらしい。
満蒙開拓移民は1931年(昭和6年)の満州事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満州内蒙古華北に入植した日本人移民の総称だそうだ。
期間は、1931年(昭和6年)から1945年(昭和20年)の15年間。かなり長いな。
国の政策で行われたらしい。
満州事変というのが始まりのきっかけなのだろうか。満州事変というのは聞いたことがあるが何だろうか。
移民先は満州というところだけではなく、内蒙古華北というところもあったらしい。
そしてその行為を入植と呼ぶらしい。入植とは何だろうか。

わからないことを一つ一つ調べてみよう。

まず、「満州」を検索してみる。
またもやウィキペディアのページが検索された。
満州 - Wikipedia

満州は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名だそうだ。
朝鮮半島の北のあたりで、今でいうと、中国とロシアの一部らしい。
そして正式には「満洲」と表記するらしい。

次に、「入植」を検索してみる。
やはり、ウィキペディアのページ。
入植 - Wikipedia

入植とは、開拓などのために、移り住む事。その移り住んだ人は「移民」・「開拓者」・「入植者」とも呼ばれ、その移り住んだ地は「移住地」・「開拓地」・「入植地」と言うらしい。
移民と入植者は同じような意味らしい。
「開拓」は何となく想像できるが念のため検索してみる。
開拓 - Wikipedia

開拓とは、未開の地に分け入り住居や農地を造り、森を林に変え、社会基盤である道路、鉄道や治水また安定的な水の供給を図り最終的に社会や街や都市を形成していく初期の過程を指す。

今のところでまとめると、
満蒙開拓移民は、満州その他の地域で未開の地に住居、農地、道路、鉄道などを作った人たち、ということらしい。
そして、それは国の政策で行われたらしい。
イメージは湧いてきた。
しかし、肝心の目的はまだわからない。
開拓ということだから優雅な感じはしない。

つづいて「満州事変」を検索してみる。これが移民の始まりと関係があるのだろうか。
満州事変 - Wikipedia
満州事変は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍南満州鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立にいたる、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。中国側の呼称は九一八事変。 関東軍は約5か月で満州全土を占領した。

「民国20年」というわからない年の呼び方がでてきた。
関東軍」とは何か、関東軍満州を占領したらしいから日本の軍隊なのだろうか。
満州事変は関東軍南満州鉄道の線路を爆破事件がきっかけで始まった日本と中華民国の武力紛争らしい。
なぜ、関東軍南満州鉄道の線路を爆破したのだろうか。
「事変」という言葉も気になる。
期間が2年弱だから結構長いな。

まずは、「民国」という年の呼び方を調べてみよう。
民国 - Wikipedia
民国紀元」のことらしい
民国紀元 - Wikipedia
民国紀元は、中華民国が成立した1912年を紀元(元年)とする紀年法である。中華民国暦、略して民国ともいう。
中華民国の暦なんだね。

次に、「関東軍」を検索してみる。
関東軍 - Wikipedia

関東軍は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。

やはり、当時の日本の軍隊らしい。「総軍」というのは何だろう。
総軍 - Wikipedia

総軍は、軍隊における部隊編制単位の一つ。主に陸軍において一つの戦域を統括する最大規模・最上級の編制単位。

あまりよくわからないが、関東軍満州を担当していた軍隊ということなのだろうか。
そもそも、なぜ満州に日本の軍隊がいたのか。これについては徐々にわかってくるかもしれない。

ウィキペディアの「関東軍」のページに戻って続きを読んでみる。

大日本帝国中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島先端)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。

租借地」とは何か。
「関東州(遼東半島先端)」とはどこか。
南満州鉄道附属地」とは何か。
関東都督府」とは何か。
順番に調べてみよう。

租借地
租借地 - Wikipedia
租借地とは、ある国が条約で一定期間、他国に貸し与えた土地のこと。租借期間中は、貸した国には潜在的な主権が存在するが、実質的な統治権は借りた国が持つ。

「主権」と「統治権」を調べてみる。

「主権」
主権 - Wikipedia
主権とは、国家の構成要素のうち、最高・独立・絶対の権力、または近代的な領域国家における意思決定と秩序維持における最高で最終的な政治的権威を指す。国家主権のこと。具体的には以下の3つが基本的意義となる。
1.国家の統治権(国民および領土を統治する国家の権力)
2.他国の支配に服さない最高独立性。対外主権。
3.国家の政治のあり方を最終的に決める権利のこと。

統治権
統治権 - Wikipedia
統治権とは、国際法や国内法で有する国土や国民など国家を治める権利のことである。

難しいな。
統治権は主権の一部のようだ。
統治権は、国民と領土を治める権利で、それに、他国の支配に服さない権利と、政治のあり方を決める権利を加えたものが主権のようだ。

租借地の理解に戻ると、
租借地の主権は貸した国が持つが、
統治権は借りた国が持つ、
ということなので、
つまり、貸した国が借りた国に国民と領土を治める権利を与えるということらしい。

つまり、当時大日本帝国中華民国からある地域の国民と領土を治める権利を与えられていたということだ。
どういう経緯でそうなったのか、あとで調べてみよう。

まずは、残りの調査。
「関東州(遼東半島先端)」とはどこか。
関東州 - Wikipedia
関東州は、日露戦争終結後、その講和条約であるポーツマス条約に基づき、中国の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借権がロシアから日本に移行した地域。1905年12月の大日本帝国清朝の間で締結された満州善後条約から1945年8月に日本が敗戦するまでの期間、日本はこの租借地で植民地経営をおこなっていた。

関東州は中国の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた地域と書かれている。
関東軍」のページには、関東州=遼東半島先端と書かれていたので整合性がとれないが、まあ気にしなくていいだろう。
地図で見ると、関東州は満州の一部のようだ。
ちょうど調べたかった、中華民国から大日本帝国租借地が与えられた経緯も書かれている。
日露戦争によって、関東州の租借権がロシアから大日本帝国へ移行したということだ。
1905年に租借権が移行したということなので、正確に言うと中華民国からではなく清朝から移行したということなんだな。
日本はここで1945年8月まで植民地経営を行っていたということだ。「植民地経営」とは何だろうか。

ちょっと長くなってきたので、ここでいったん記事を切り替えよう。
その前に、調査の現状とこれから調べることを整理する。

調査の目的
第二次世界大戦前に日本から満州へ移住した人たちの移住の目的を調べること。

わかったこと
満蒙開拓移民は、満州その他の地域で未開の地に住居、農地、道路、鉄道などを作った人たち。
そして、それは国の政策で行われた。
期間は満州事変以降の1931年から1945年までの15年間。
それ以前の1905年から1945年まで、日本は満州の一部の関東州の租借権を持っていた。
そして、そこで「植民地経営」というものを行っていた。(「植民地経営」についてはこれから調べる。)

満州への移住は満州事変の後に始まったらしいので、満州事変について調べている。
満州事変は関東軍が関わっているので、関東軍について調べている。
関東軍について調べていてわからないことが、下記のもの。
南満州鉄道附属地
関東都督府
あと、植民地経営について調べる。