なぜ第二次世界大戦前に日本から満州へ移住した人たちがいたのか(4)

満蒙開拓移民の動機、目的、背景を調べている。
満蒙開拓移民満州事変以降に始まったらしいので、満州事変について調べている。
満州事変が関東軍満州鉄道爆破によって始まったらしいことがわかったが、なぜ関東軍がそれを行ったのが疑問に思い満州事変が起こる経緯を調べている。
満州事変 - Wikipedia
上記のページの中の、「中華民国がカラハン宣言以降共産主義に接近し、日本との過去の条約の無効を主張し始めた。」という部分を調べている。

ここまででわかったこと
1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。その後、首都を北京に移し北京政府が成立する。
1913年袁世凱が権力を持つようになり孫文が所属する国民党を弾圧し始めた。
1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国大皇帝に即位する。翌年、袁世凱は病死する。
1917年に孫文が北京政府に対抗する広東政府を作る。
1919年ソビエト連邦がカラハン宣言を出す。中華民国の権利が回復する。そして、中華民国ソビエト連邦共産主義を支持するようになる。

それで、「中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近」という記述につながった。

調査を続けよう。
満州事変までの経緯の次の部分を調べていたのだった。
満州事変 - Wikipedia

中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。

そして「蒋介石」について調べようとしていた。
蔣介石 - Wikipedia

蔣 介石(しょう かいせき、1887年10月31日 - 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統中国国民党永久総裁。

不明点は下記のとおり。
「初代中華民国総統」というのは何か。
「国民政府主席」というの何か。北京政府と広東政府以外にも政府があったのか。
中国国民党永久総裁」となっているから孫文と同じ党に所属していたのか。
1919年時点では蒋介石が権力を握っていたのか、それとも蒋介石は国民党の人のようだから孫文の側(北京政府に対抗する側)にいたのか。

それでは、蒋介石の説明の続きを読もう。

孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。

蒋介石孫文の後継者のようだ。
そして、「北伐」というものを行ったらしい。これは何だろうか。
そして、その後中華民国を統一したらしい。これは北京政府と広東政府を統一したということだろうか。
「最高指導者」というのが「中華民国総統」のことだろうか。

まずは「北伐」を調べてみよう。
北伐 (中国国民党) - Wikipedia

北伐は、広東政府や国民革命軍が北京政府、北洋軍閥を打倒して中国国民党による全国の統一を目指した戦争。

広東政府が北京政府を倒して中華民国の統一を目指した戦争らしい。
「国民革命軍」というものが広東政府と一緒に戦ったらしい。これは何だろうか。
国民革命軍 - Wikipedia

国民革命軍は1925年から1947年までにわたる中国国民党の軍であり、1928年からの中国国民党による一党制の期間には中華民国の国軍でもあった。

中国国民党の軍だそうだ。そして、1928年からは中華民国の軍でもあったということだ。
1928年からは中国国民党の一党制になったとも書いてある。1928年になにか変化があったらしい。これが北伐の完了なのだろうか。

北伐の続きを読もう。

孫文による第一次北伐または第一回北伐 (1922年2月~6月)および第二次北伐または第二回北伐 (1924年9月~11月) と蒋介石による第三次北伐 (1926年7月~1928年12月)がある。

北伐は3回行われたらしい。
1回目と2回目は孫文により行われ、3回目は蒋介石によって行われたということなんだな。
蒋介石による3回目の北伐は、1926年から1928年に行われたものである。一方、満州事変の経緯として、蒋介石は1919年のカラハン宣言以降、日本に対して過去の条約の無効を主張し始めたらしいから、それは北伐完了以前のことになる。北伐完了以前の蒋介石の立場がどのようなものだったのかがまだ不明だ。

北伐についてはなんとなくわかったので、蒋介石の調査に戻ろう。
不明点は下記のものだった。
「初代中華民国総統」というのは何か。
「国民政府主席」というの何か。北京政府と広東政府以外にも政府があったのか。
中国国民党永久総裁」となっているから孫文と同じ党に所属していたのか。
1919年時点では蒋介石が権力を握っていたのか、それとも蒋介石は国民党の人のようだから孫文の側(北京政府に対抗する側)にいたのか。

蔣介石 - Wikipedia
それぞれの地位についていた期間が書かれていた。
中華民国(国民政府)第3代主席 1928年10月10日 – 1931年12月15日
中華民国(国民政府)第5代主席 1943年8月1日 – 1948年5月20日
中華民国初代総統 1948年5月20日 – 1975年4月5日

中華民国初代総統になったのが1948年だから、これが北伐完了後の統一された中華民国の代表の地位のようだ。
したがって、国民政府主席であったのは、中華民国が統一される前のときだ。

蒋介石についてはまだよくわかっていないが、とりあえずいったん満州事変の調査に戻ろう。
調査の目的を見失いそうだから。

満州事変までの経緯の次の部分を調べていたのだった。
満州事変 - Wikipedia

中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。

蒋介石について調べても「蒋介石派」が何を指すのかはわからなかった。調査が不十分なのだろうけれど。
調べ方があまり良くないのかな。蒋介石がカラハン宣言とどう関わっていたのかが知りたい。
蒋介石 カラハン宣言」で検索してみればいいのかもしれない。
下記のページが検索された。
14.3.3 国民党と共産党 世界史の教科書を最初から最後まで|みんなの世界史|note
目次に「蒋介石の登場」と書かれている。知りたいことが書かれているかもしれない。
とりあえず先頭から読んでみよう。

ソ連からのアピール

1919年と1920年の二度にわたり、ロシアのソヴィエト政権は中国にある宣言を送った。
宣言の名義人は「外務人民委員代理」というポストのカラハン(1889〜1937年)。
ロシア帝国が、清からもぎ取って来た歴代の不平等条約をすべて “なかったこと”にしてあげる」という内容だ。

調べてきた内容だ。なじみがあるな。続きを読もう。

ソヴィエト=ロシア政権がこんな「おいしい」提案をしたのには、当然理由がある。
当時の「中国」には、北京に拠点を置く政府と、南部の広東に拠点を置く革命派の政府(広東革命政府(1923〜1925年))の2つが存在していたからだ。
「革命」を世界中に広めるという名目で、周辺の防備のためにモンゴルを「社会主義チーム」に引き込みたかったソヴィエト=ロシア政権は、中国の北京政府との間に浮上していたモンゴル問題を解決したいと考えた。
そこで、カラハンの宣言によって北京政府の抱き込みを図ったわけだ。

「ソヴィエト=ロシア政権がこんな「おいしい」提案をしたのには、当然理由がある。」
なるほど。たしかに、なぜソビエト不平等条約を解消しようとしたのかは疑問に思わなかった。
ソビエトには何か狙いがあったらしい。「モンゴル問題」というのが関係しているらしい。
これは何だろうか。

「モンゴル問題」で検索したが知りたいものとは違うものが検索された。
どうやって検索すればいいかな。「カラハン宣言 モンゴル問題」で検索してみよう。
レフ・カラハン - Wikipedia
前に読んだ「カラハン」さんのページだ。ここに書かれていたんだな
ただ、このページにはモンゴル問題については記載されていない。

とりあえず先へ進もう。続きを読む。

一方、同時に広東政府率いる孫文にもカラハン宣言を送り、“交渉相手”として認めることで、北京政府に対して揺さぶりをかけることも狙った(広東政府にカラハン宣言を送ったのは1919年のみ)。
孫文にとっても、広東政府を相手にしてくれない欧米諸国に見切りをつけ、欧米諸国と真っ向から対立するソヴィエト=ロシア政権のサポートを得るほうが得策だったのだ。

ソビエトは北京政府と同時に広東政府にもカラハン宣言を送ったらしい。北京政府に揺さぶりをかけるために。
広東政府としてもソビエトのサポートを受けたかったようだ。当時は欧米諸国は広東政府ではなく北京政府を正当な政府とみなしていたらしい。

では、核心と思われる「蒋介石の登場」の項目を読んでみよう。

1923年にはソ連に軍人の蒋介石を派遣し、軍隊を視察させ、翌年1924年にはボロディンのアドバイスで、近代的な軍のエリート将校を養成するための学校(黄埔軍官学校)を開校した。

1923年に蒋介石ソビエトに派遣されたようだ。

さらに、1924年中国国民党の組織を一新し、中国共産党の党員が個人の資格でならば中国国民党に入ることを認めることを決断。
これ以後の、中国共産党中国国民党の協力関係を第一次国共合作(1924〜27年)というよ。
あくまで「個人の資格で」っていうところがポイントだ。

孫文の打ち出したスローガンは「ソ連と連携し、共産主義を受けいれ、労働者と農民を助けよう」(連ソ・容共・扶助工農)というもの。
各地にいまだはびこる軍閥を倒し、中国の利権を食い漁るヨーロッパ諸国・アメリカ合衆国・日本を追い出そうという路線を定めた。

その後、中国国民党中国共産党は協力するようになる。たしか、両党は協力して北京政府と戦ったんだったな。
そして、それと並行して、ソビエトと連携し共産主義を受け入れ労働者と農民を助け、ヨーロッパ、アメリカ、日本とも戦おうとしたらしい。

結局、蒋介石とカラハン宣言の関係はよくわからなかった。
ただ、当時の北京政府、広東政府、ソビエトの関係がだいたいわかっていればいいような気がしてきた。
もしかしてそれすら理解する必要がないかもしれないが。

では、満州事変の調査に戻ろう
満州事変までの経緯の次の部分を調べていたのだった。
満州事変 - Wikipedia

中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。

何度も見たな。なかなかここから進まない。
結局書いてあるとおりだが、ソビエト連邦中華民国の利害が一致し両国は協力関係になった。といっても、中華民国は北京政府と広東政府に分かれて争っていたから、正確には広東政府とソビエト連邦がより強く協力するようになったのだろう。そして、中華民国は日本などの国と争う姿勢を示し始めたということのようだ。

では、後半部分の「条約継承否定説」を調べてみよう。
「継承国」というページが検索された。
継承国 - Wikipedia

継承国、承継国とは、ある国家が消滅したのち、その国が締結していた条約上などの義務や権利を引き継ぐ国。

複数の新国家が旧国家の領土を分割した場合や、旧国家の消滅後に長い空白期間をおいて新国家が成立した場合などに問題になる。また、革命政権などの樹立により、前政権による対外債務や各条約の継承を受け入れない場合、国家が併合する場合に消滅する側の締約していた条約の継承なども問題となる。

今調べている問題でいうと、清と日本が結んだ条約を中華民国が引き継ぐのかが問題になるということのようだ。

国家継承の問題は古くから王朝や領土・財産などの継承(包括継承、分割、併合等)問題として存在したが、国際慣習法として確立されたものではなく、本格的に議論されはじめたのは第二次世界大戦後のことである。

19世紀には、政府の形態が変更しても国家が同一のままなら当該国家の他国に対する権利義務は影響を受けることがなく継続するということは学説や国家実行から認められており、これは包括的継承説とされる。

一方で19世紀末から包括的継承に否定的な説が登場し(継承否定説)むしろ第二次世界大戦以降の議論では継承否定説が国家継承理論の基礎をなすものと考えられるようになった。

19世紀までは国が変わっても他の国に対する権利義務は継承されるという考え方が一般的だったようだ。
しかし、19世紀末にその考え方を比定する考え方(継承否定説)が出てきたようだ。
つまり、当時としては新しい考え方を中華民国は採用し日本に対して条約無効を主張したということのようだ。

では、その日本と清が結んだ条約というのは何だろうか。調べてみよう。
「日本 清 条約」で検索してみる。
下記のページが検索された。
日清修好条規 - Wikipedia

日清修好条規は、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、天津で、日本と清の間で初めて結ばれた近代的な条約。両国にとって開国後、初めて外国と結んだ「対等」条約であった。

内容はまだよくわからないが、対等な条約と書いてあるから特に解消する必要がある条約には思えないが、なにか問題があるのだろうか。続きを読んでみよう。

1894年(明治27年)の日清戦争により失効した。

どうやら今問題になっているのはこの条約ではなさそうだ。
次のページを見てみよう。
日清戦争 - Wikipedia

日清戦争は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日であり、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島遼東半島および黄海で両国は交戦し、日本側の勝利と見なせる日清講和条約下関条約)の調印によって終結した。

ちょうどさっき出てきた「日清戦争」のページだ。
原因は、「李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争い」らしい。どういうことだろうか。
日清講和条約下関条約)を結んで戦争は終わったらしい。この条約がいま問題になっている条約だろうか。これを調べてみよう。

記事が長くなったので、状況を整理して切り替えよう。
今は、満州事変が起こる経緯を調べている。
その中で、中華民国が清と日本が結んだ条約の無効を主張したという部分を調べている。
その条約というものが何か、ということを調べていて、それが、日清戦争後に結ばれた日清講和条約下関条約)のことかもしれない、ということにたどり着いたところだ。
次は日清講和条約下関条約)を調べる。