戦前に起きた警察官と軍人のけんか(ゴーストップ事件)

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ゴーストップ事件は、1933年(昭和8年)に大阪府大阪市北区天六交叉点で起きた陸軍兵と巡査の喧嘩である。

それが陸軍と警察の大規模な対立に発展した。

「ゴーストップ」とは信号機のこと。

満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動くきっかけの一つとなった。

事件の経緯

1933年(昭和8年大阪市北区の交叉点で、私用で外出中の陸軍兵士の中村政一(22歳)が、赤信号を無視して交差点を横断した。

交通整理中であった大阪府警察部の戸田忠夫巡査(25歳)は中村を注意し、派出所まで連行した。

その際中村が「軍人は憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務はない」と抵抗したため、派出所内で殴り合いのけんかとなった。

陸軍は「公衆の面前で軍服着用の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」として警察に対して抗議した。

憲兵とは、大日本帝国陸軍において陸軍大臣の管轄に属し、主として軍事警察を担当した組織である。

軍部と警察・内務省の対立

陸軍が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、軍の威信にかかわる重大な問題である」と声明し、警察に謝罪を要求した。
それに対して警察も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と発言した。
陸軍幹部と大阪府知事の会見も決裂した。

東京では、問題が軍部と内務省との対立に発展しそうな状況であった。
陸軍大臣は「陸軍の名誉にかけ、大阪府警察部を謝らせる」と息まいたが、
警察を所管する内務大臣は軍部の圧力に抗して一歩も譲らず、謝罪など論外と考えていた。
内務省は当時「官庁の中の官庁」と謳われる強大な権限を誇り、内務省官僚は東京帝国大学法学科を上位の成績で卒業したエリートたちであって、その矜持は高かった。

陸軍兵士中村は戸田巡査を暴行、職権濫用、傷害、名誉毀損大阪地方裁判所検事局に告訴した。

事件の処理に追われていた警察署長は過労で倒れ入院し、腎臓結石で急死した。

事件目撃者の一人が、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺した。

検察は「兵士が私用で出た場合には交通法規を守るべきである」と、警察とほぼ同じ見解を示しながらも、
起訴すればどちらが負けても国家の威信が傷つくとして、仲裁に尽くした。

終結

最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により、兵庫県知事が調停に乗り出した。
天皇が心配していることを知った陸軍は恐れかしこまり、事件発生から5ヶ月目にして急速に和解が成立した。
和解の内容は公表されていないが、警察側が譲歩したというのが定説となっている。

事件の影響

この事件を契機に現役軍人に対する行政行為は警察ではなく憲兵が行うことがあらためて意識されることとなり、満州事変後の世情に憲兵や軍部組織の統帥権と国体の問題を改めて印象付けることとなった。