NHK高校講座の世界史の「オリエント文明」を見て興味を持ったものをネットで検索した
楔形文字
楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ)とは、世界四大文明の一つであるメソポタミア文明で使用されていた古代文字である。
筆記には水で練った粘土板に、葦を削ったペンが使われた。最古の出土品は紀元前3400年にまで遡ることができる。文字としては人類史上最も古いものの一つであり、古さでは紀元前3200年前後から使われていた古代エジプトの象形文字に匹敵すると言われている。
メソポタミア文明を支えたのは、高い農業生産力でした。
2つの川がもたらす豊富な水を灌漑によって畑に引き込んで、主に小麦が栽培されました。
小麦1粒から80粒、つまり80倍ほどの収穫量があったと考えられています。
中世のヨーロッパで4倍程度、現在のアメリカで20数倍といわれていますから、メソポタミアの農業技術が驚くほど高かったことがわかります。
収穫した小麦は、人々の主食となるほか、交易の商品となりました。
この大事な小麦を管理・記録するために、文字が使われるようになったと考えられています。
メソポタミア
メソポタミアは、ティグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。
土地が非常に肥沃で、数々の勢力の基盤となったが、長年の灌漑によって徐々に土地の塩害が深刻となり、収量は低下していった。
シュメール人
シュメール人は、楔形文字を生み出し、最古の神話「ギルガメシュ叙事詩」を残しており、最近では多数出土した粘土板でシュメール法典の存在が注目されている。彼らの文化は、メソポタミア文明の最初の段階であるシュメール文化と総称される。楔形文字はその後もオリエント世界の諸民族の言語を書き表す文字として共通の文字とされ、アケメネス朝ペルシアまで続いた。シュメール法典は古バビロニア王国のハンムラビ法典に継承された。またシュメール人の神話は、その後のオリエントの諸民族に影響を与え、ユダヤ教の旧約聖書を通じてキリスト教にも引き継がれており、例えば、旧約聖書の「ノアの箱舟」(大洪水)の話の原型はギルガメッシュ神話に見ることができる。
ハンムラビ法典
「目には目を、歯には歯を」という言葉は「復讐してヨシ」ではなく、「復讐はしすぎるな」という抑止の意図だった!
そこで「目には目を、歯には歯を」という一説の真意ですが、「こちらがやられたこと以上の過剰な復讐をしてはならない」と、過剰な報復合戦を防ぐ目的で条文化されたのではないか?という学説が有力になっています。
つまり「やり返せ!」と煽るのではなく、むしろ「やられて悔しい人は、同じ程度の復讐をする程度でとどめなさい」という、抑止の意図でつくられた、と考えられるのです。
『ハンムラビ法典』の後書きには、王の願いとして「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」との文言も記載されています。条文だけでも法典として成り立つものを、あえて後書きに王の願いとしてこうした内容を記載しているあたり、ハンムラビ王は良心ある賢帝だったのであろう、と推測できます。
もちろん、現代的な価値観で見ると残酷に感じる内容も多々ありますが、ハンムラビ王は、国民の最大公約数が納得できる『法』とは何か?という課題に、誠実に真摯に向き合ったうえで、法典を編纂したのではないでしょうか?
フェニキア人
東地中海岸で前13世紀ごろから海上貿易に活躍したセム語族の一つ。アルファベットのもととなったフェニキア文字をつくった。地中海世界でカルタゴなどの多くの植民市を建設した。
アルファベットの考案
彼らは活発な交易活動に便利なように、後のアルファベットのもとになる線状文字であるフェニキア文字を作り出した。この文字体系はすでに、前2000年紀中ごろのカナーンおよびシナイ半島に始まったが、その段階では象形文字的要素が強く残る線状文字であった。この初期のアルファベットは文字数も27個から30個と多く、文字を書く方向も右から左、左から右、あるいは行ごとに交互に書く牛耕式とまちまちで一定せず、さらには縦書きさえあった。それをフェニキア人は、前11世紀の中ごろ、文字数22個の子音文字からなり、右から左への横書きという北西セム語の線状アルファベットとしてのフェニキアを文字完成させた。<佐藤育子『同上書』 p.41>
フェニキア人の作ったアルファベットは、子音を表すだけであったので、後にギリシア人が母音を加えて、現在のようなアルファベットになった。この完成された形のアルファベットは、フェニキア人の交易活動の広がりと共に、地中海世界に広がっていった。(ただし、アルファベットの伝搬者ではあったが、彼ら自身が書き記した文献資料は発見されていない。)